アクセスカウンタ

〜香芝チャペル〜 あなたへGood News!

プロフィール

ブログ名
〜香芝チャペル〜 あなたへGood News!
ブログ紹介
グレース宣教会 香芝チャペルが毎月配布している新聞です。
キリストの愛をあなたにも!教会へおいでください
●奈良県香芝市西真美1-22-10 0745-78-3196
牧師 :安田 正 /金 大弘(キム・デホン)
■聖 日 礼 拝 日曜11時〜  ■こども日曜学校 日曜9時30分〜
■婦 人 会 水曜10時半〜 ■祈 祷 会    木曜夜7時半〜
 
▽英会話大人クラス火曜昼12時−1時半、夜(冬まで休止)
▽英会話子供クラス 火曜4時15分(下級)5時15分(上級)
▽韓国語会話    火曜夜7時半−9時
▽ゴスペルクラス  休止中

■聖書の学び(Bible Study)・・・聖書のことを知りたい方、色んな 疑問がある方、どなたでもいつでも大歓迎します。
■各種相談(カウンセリング)・・・子育て、人間関係、家族関係や 家庭内暴力、精神的問題(うつなど)、宗教相談、結婚相談、中毒問題、いじめ問題などの悩みがある方はどなたでもお越しください。
help リーダーに追加 RSS

4月11日(土)ヨハネ20:1-31『復活の信仰』

2009/04/11 16:32
 金曜日にイエス様は十字架につけられましたが、聖書の預言通りに週の初めの日、即ち、今の日曜日の朝、キリストはよみがえられました。キリストの復活は、キリストの死と共にクリスチャン信仰の核心です。キリストの復活がなければ、彼の死の意味は中途半端となり、我々にも復活や永遠のいのちもありません。即ち、キリストの死が人類の罪の贖いだったとしても、復活がなければ神を信じる我々にも永遠のいのちはなく、依然として死ぬべき存在となってしまいます。また、復活がなかったら、キリストが罪を赦し、永遠のいのちを与えられる神である証拠もありません。しかし、キリストはよみがえり、その墓は空っぽとなり、多くの人々に公に現れました!キリストの墓は、厳重に監視され、敵も見方も盗まれないように守っていました。
キリストが復活されたのは伝説でも、作り話でもない事実であり、歴史的な事件であったことが様々な書物でも記されています。歴史の中でいまだかつてキリストのように死んでよみがえった人はキリストの前も後も存在しておりません。どんな宗教でもそのような真似はできません。仏陀も解脱したとはいっても死にました。マホメトも死にました。孔子に死にました。ガンディも死にました。どんな新興宗教の教祖であれ死にます。あなたも私もやがて死にます。しかし、キリストは復活されました。復活したと信じたいのではなく、復活されたのです。数多くの証拠もあります。復活のない信仰は虚しい信仰です。様々な宗教は、色んなもっともらしいものを主張しますが、復活の事実も証拠もありません。復活のない信仰には、罪の赦しもなければ、いのちもありません。
善悪と生死を司るのは、人ではなく、三位一体の神であられる父、御子、聖霊にあります。エホバの証人やモルモン教のような異端は、キリストの死と復活を認めても、神ではなく、第一被造物としてとらえています。キリストを被造物としてとらえています。聖書にもない証拠を勝手に作り上げて、聖書も偽造、捏造しています。彼らが配っているチラシには聖書の箇所だと書いている文章も聖書の正しい翻訳でも、文章でもないことに気をつけて下さい。キリストが神だから、我々の罪の贖いや赦しも完全であり、復活も完全なものになります。初めに、ことばがあり、ことばは神と共にあり、ことばも神であって、全てのものはこの方によって造られ、このことばは人となって、人の世界に来て下さいました(ヨハネ1:1-3,14)。疑い深い弟子トマスは、目でキリストを見た後、イエス様は、『我が主、我が神』(ヨハネ20:28)と、告白しました。ヨハネは、この福音書を記録する目的を、『イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。』(20:31)と、はっきり記しています。
正しい復活信仰とその理解は、キリストの平安(シャローム)を与えてくれます。復活信仰がある所には平安が来ます。希望があります。主を見失って泣き続けるようなことはありません。弟子たちは、なかなかそれを理解してませんでしたが(20:9、11)、復活信仰を持ち始めてから情熱のある人々へと完全に変えられました!あなたの復活信仰は本物ですか。正しくその意味を理解して経験していますか。あなたの信仰生活に活力と情熱がありますか。復活信仰は、私の、あなたの死んでいた、眠っているいるたましいと霊を目覚めさせ、それに火をつけ、燃えさせます。主を求める思いに、救霊の思いに情熱の火がつきます。主の復活を御言葉の黙想を通して深く思い巡らし、祈ってください。主は、求める者に惜しみなく悟りと恵みを与えて下さいます。アーメン。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


4月10日(金)ルカ23:26-49『どくろに向かって』;イザヤ53章

2009/04/11 16:31
 今日は、当時、ちょうどイエス・キリストが『どくろ』と呼ばれるゴルゴタという丘の上で十字架にかけられた日です。イエス様は鞭打たれ、嘲られ、罵られ、唾かけられ、十字架上に付けられました。罪の無い聖なるお方が全人類の罪の贖いと赦しの為に身代わりに死んで下さいました。この日はイスラエルの過ぎ越し祭りの最後日でもありました(イスラエルでは夕方から次の日の夕方まで一日と数えます)。この日は、エジプトでイスラエル人が奴隷から解放されたことを覚え、1週間祭りが行なわれ、最後の日に傷のない子羊ややぎがほふられ、いけにえを奉げる儀式が行なわれていました。イエス様は預言通り、この過ぎ越しの祭りの最後の日に、この過ぎ越しのほふられる子羊として、十字架上で死なれました。
なぜ、神様はイスラエルがエジプトから脱出する時、単に奇跡などの力によらず、人間から見て面倒に、子羊ややぎをほふり、エジプトから救出したのでしょうか。エジプトにそのまま罰を与え、イスラエルを救うことはできなかったでしょうか。なぜ、イエス様は死に、しかもこの過ぎ越しの日に死なれたのでしょうか。それは、創造主なる神は聖なるお方であるが、人間はどんな人であれ罪を持っているからです。罪の報いは必ず死であり、罪の贖いによる赦しなしには救われる人は誰もいません。自分で救うことも、聖くなることも、贖われることもできません。シャカモニがいくら念仏をしたとしても、実際彼自身は解脱したのでも、聖くなったのでも、救うことができたのでもありませんでした。彼も自分の罪の結果として死にました!たとえ、神様が選ばれたイスラエルだとしても罪人であることには変わりないし、その報いが死であることにも変わりはなかったのです。彼らももちろん罪の贖いと聖くなる必要がありました。
エジプトで奴隷であったイスラエルを贖い救う為に神様が与えた方法は、10回に渡る奇跡とさばきがエジプトに下されたものの、実際一番大切だったのはこの傷のない(聖い)子羊ややぎをほふり、その血を家の門柱やかもいに塗ることでした。傷のない血は「罪を贖い清くする」という意味をもっています。血が塗られたイスラエルの家は神様のさばきが過ぎ越され、血が塗られてないエジプトの家には神様のさばきが下されました。保留はありません。「この家はまだ救われる可能性があるから保留にしとこう」ということはありません。さばきか救いかのどちらかです。
神様が全人類を救う為になされた方法は、力づくの奇跡ではなく、神が人となられて死んで下さる愛の奇跡でした。十字架は罪に対する神のさばきであると同時に人類に対する神の愛の結晶です。ゴルゴタの丘の上には3本の十字架が立てられました。真ん中にイエス様、右と左に強盗の十字架でした。このゴルゴタと両側の二本の十字架は私たちの姿を表わしています。創造主を忘れ、捨てた私たちの人生はゴルゴタ(どくろ)のような人生です。やがて死を迎えます。皆、『どくろ』に向かいます。避けられる人は誰もいません。このどくろの果てに、十字架があります。キリストの十字架です。救いかさばきか!二人の強盗の中で一人は悔い改めて救われました。もう一人は悔い改めるところかキリストを嘲り、さばかれました。保留はありません。真ん中はありません。救いかさばきかどちらかです。『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。』(Iコリント1:18)アーメン!
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


4月9日(木)受難週ルカ22:24-46『真の王権』;マタイ20章、ヨハネ13章

2009/04/11 16:30
 過ぎ越しの祭りの最終日、即ち、子羊がほふられる、種なしパンの日に、イエス様は弟子たちを集め、最後の晩餐を行ないました(ルカ22章)。イエス様はその夜、パンと杯を取り、ご自身の身に起こること、これからなさる十字架の意味を語りました。即ち、創造主である方が人の罪の為に身代わりになって死んで下さること、その為に神であられる方が徹底的に低くなられ、今まで仕えて来られたことを身をもって示して下さいました。ところが、弟子たちの態度はイエス様の思いとは食い違い、空回りしていました。なんと、彼らの間には、誰が一番偉いだろうかという議論がまた起きていたのです(22:24)。人間には大きく4つの欲があります。食べ物に対する食欲、物質に対する物欲、性に対する性欲、名誉に対する名誉欲です。これが罪性に囚われてしまうと、貪欲、情欲、傲慢、そして争いを生み出します。弟子たちの期待は、自分たちがイエス様に全てを捨てて従ったから、神の御国の到来において、成就において少なくとも順番に偉い座に着くと思っていました。ごく自然な人間的考え方です。
イエス様は、このように偉くなりたいと争う弟子たちに向かって、『真の王権』とは何かについてもう一度教えて下さいました:『わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。』(ルカ22:29)。『異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。』(ルカ22:25-26)人の国においては『王権』は、仕えられて支配し君臨するものですが、神の国においての『王権』は、謙って仕えて『給仕』するものです。この後者が真の王権、永遠になくならない王権、力ある王権を持ち、その威力を発揮することができます。その王権は有益をもたらします。即ち、いのちと活力、喜び、楽しみ、感謝、平安、満足、和解と平和をもたらします。イエス様が『一番年の若い者のようになりなさい。』と語ったのは、若い人のように、@学ぶこと、Aその若い力を持って人を満足させる、人に仕える、意味があります。マタイは、イエス様が来たのは、『仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、ご自分のいのちを与えるためであった』と、語っています(マタイ20:28)。主であり、師であるお方が、万物の創造主であるお方が『真の王権の振る舞い方、使い方』の模範を示して下さったからです。
 もう一つ、イエス様が教えてくださったのは、やはり祈ることの大切さです。イエス様は弟子たちの信仰がなくならないように取り成しの祈りをされていました(ルカ22:32、39-46)。祈りは、自分と人の信仰を強め、誘惑から陥らないようにします。祈らない人は信仰を失いやすくなります。サタン(悪魔)にとって祈らない大統領、指導者、天才はちっとも恐くも痒くも、痛くもありません。しかし、まことに祈る3歳の子どもはとんでもなく手ごわい存在です!あなたと私の信仰がなくならず、強められているのは、少々自分の祈りが足りなくても、誰かの強力な取り成しの祈りがあるからです。どんな時でも挫けず、失望せず、落胆せず、信仰によって祈る人は真の王権を使うことができる人です。信仰による祈り、御言葉による祈り、聖霊様に頼る祈り、キリストの名による祈り、自分を明け渡す悔い改めの祈り、人に仕えていく為の取り成しの祈り。これは、神の子どもがその与えられた『王権』をフルに、真に用いることができるようにする一番大きな方法です。共に祈ることはそれを最大にしていきます。イエス様は一人で祈る時もありましたが、弟子を共に連れて祈りに行きました。そして、彼らも共に祈るように語られました。しかし、彼らは依然としてイエス様の願いと違い、空回りしていました。イエス様は、悲しみと苦しみにもだえて『祈って』おられましたが、弟子たちは悲しみの果てに『眠り込んで』しまいました!(ルカ22:39-46)結果は、イエス様は十字架を背負い、弟子たちは逃げていきました!しかし、幸い彼らは共に祈る人として変わり、世界を騒動させる感染力のあるクリスチャンとして変えられていきました!ハレルヤ!
あなたは、仕える思いを常にもっていますか。それとも仕えられたい思いが強いですか。それによってあなたの持っている王権を本当に使えることができるか、それとも王権を失ってしまいます。あなたは祈る人であり、更に共に祈る人ですか。それによってあなた自身のことは勿論、日本の今世代と次世代の歩みが変わっていきます。アーメン。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


4月8日(水)出エジプト12:1-16『過ぎ越しの祭り』;出エ12-13章、ヨハネ13章

2009/04/11 16:29
 イスラエルの過ぎ越しの祭りは、イスラエルがエジプトの奴隷から解放され自由の民となったことを記念して出エジプト時代から今日に至るまで守り行なっているイスラエルの3大祭りの一つです。イスラエルは、エジプトから脱出する前夜、傷のない子羊ややぎをほふり、その血を取り、家の門柱とかもいにそれを塗りました。また、それは人間が好きな動物を選び、決めたのではなく、神様自ら定め、命じました。人による方法ではなく、神様が定める方法でした。その夜、神様はエジプトの全土を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの全ての初子を打ち、エジプトにある全ての偶像をさばきました(12:12、29)。しかし、イスラエル人がいる家々の血は、彼らの救いと贖いのしるしとなり、主はその血を見て、彼らの所を通り過ぎました。神様がエジプトの地をさばく時、この血がつけられたイスラエルの家には神様からの滅びのわざわいは起こりませんでした(12:13)。そして、神様はこの日について彼らに言われました:「この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。」(12:14)
この過ぎ越しの日は、神様のさばきと救いが同時に行なわれた日でした。イスラエルは奴隷から解放され、エジプトはその悪がさばかれました。両方とも罪人であることには変わりませんでした。しかし、イスラエルは神様に従い、子羊の血で贖われ、さばきから免れました。イスラエル人だからといって全部自動的にさばきを避けることになるとはかぎりません。子羊の血が塗られていなければ、たとえイスラエル人であったとして当然さばかれることになりました。
さて、奴隷のイスラエルは罪の奴隷になっている全人類を象徴します。奴隷制度は、人類の堕落の悪い結果でもありますが、神様は奴隷となるのがどのようなものなのかをこの制度を通して長い間人類に示して下さいました。奴隷にはまったく自由がありません。神様から離れた人類は、罪の奴隷となり、自分では聖めることも救うことも、償うことも、贖うこともできない、どうしようもない、自由も奪われ、さばかれるべき存在となってしまいました。罪はさばかれなけれならないものであり、必ずさばかれます。実際、さばかれました!(参照ヨハネ3:16-18)
子羊とその血は、やがて来られた神の子羊イエス・キリストとその十字架を表すものです。新約時代、預言者であるバプテスマヨハネはイエス様を見て、『革命家、王の王、主の主』と言わず、『世の罪を取り除く神の子羊』(ヨハネ1:29)と、叫びました。イエス様は、世の罪を取り除く神の子羊として、罪を永遠にさばき、一人も罪から滅びることなく、永遠のいのちを得させる為に、十字架で自らほふられる犠牲羊となりました。ここで、神様のさばきは子羊の血が塗られた家は過ぎ越されて救われ、そうでない所はすべてさばかれたように、キリストを信じ受け入れた人々は、子羊イエス・キリストの血潮によって塗られ、さばかれることなく、永遠のいのちをもつ自由の者となっています。
十字架は、全人類の罪に対する神様のさばきであり、愛が形となって同時に実現された交差点(Cross)です。これは、過去、現在、未来に渡って永遠に有効です。二度三度同じく繰り返す必要はありません。なぜなら、神様は永遠のお方であり、完全なお方だからです。あなたの心にキリストの十字架があるならば、キリストの血潮で塗られているならば、即ち、このお方を心から信じ受け入れているならば、あなたは罪の裁きから、罪の奴隷から、全てのトラウマから、肉の情欲から、人生の失敗や絶望から解放され、勝利しています。十字架はやがて勝利することを表してしるのではなく、既に罪から、悪から勝利していることを宣言しています!クリスチャンはやがて勝利する者ではなく、既に勝利者として歩む者です(ヨハネ16:33)。人に対する勝利ではなく、罪と悪に対する勝利です。神を信じながらも自我で生きる人は、勝利者なのに失敗者ごとく歩む人です。十字架の勝利を理解していない人です。人類の先祖アダムとエバ以来、人類は善悪の木といのちの木を中心とする祝福を失いました。しかし、キリストの十字架によってそれは回復されました。十字架の下、即ち、人は善悪といのちを司るキリストの下で全ての祝福を回復できるようになりました。勝利者ならば勝利者らしく、神の子ならば神の子らしく、信仰者ならば主を信頼する者らしく、キリストの痕跡をもってる者ならばその恵みに預かる者らしく歩もう。アーメン。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


4月7日(火)ヨハネ13:1-17『イエス様のタオル』 ;ローマ12章を読む

2009/04/11 16:28
 イスラエルの3大祭りの一つである過ぎ越しの祭りの前にイエス様は、弟子たちをもう一度集めて、ご自身がなぜこの世に来られ、これからどんなことが起き、何をなさるかを明らかに示しました。先ず、イエス様は弟子たちにお互いに愛し合い、仕え合う者になることを模範として示して下さいました。弟子たちは、イエス様がクーデタを起こし、イスラエルをローマ帝国の植民地から独立させ、彼らに栄光の座を与えてくれると期待していました。しかし、弟子たちを集めた時、イエス様は最後の戦いの為に彼らの武器をチェックしこれからの革命の成功の後に与えるポストについて語ったのではなく、彼らの信仰をもう一度点検して下さいました。イエス様は余すところなく弟子たち(裏切りイスカリオテ・ユダを含む)にその愛を示しながら、神様が願う人の姿が何であるか、そして人の本当の祝福の秘訣を教えて下さいました。腰にはタオルをまいて創造の神であられる方が被造物である人の前で跪き、腰を屈め、弟子たちの足を洗い始められました。ペテロの順番になった時ペテロは自分の足を洗わないように言いました。彼は、申し訳ないと思って遠慮したでしょう。自分こそ主であるイエス様の足を洗うべきだと思っていたかも知れません。
しかし、そのような遠慮は無用です。イエス様は彼に答えられました。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と(13:8)。これはとても大切なメッセージを含んでいます。イエス様がペテロに先ず願ったのは自分の心も体も主に委ねることでした。自分を主に委ねないかぎり、聖められることも力付けられることもありません。イエス様に従おうとする者は、先ず自分の考え、思い、計画、お金、時間、全てを主に委ねずには主に聖められることも仕えることもできません。いくらよい考え、計画、時間、力、お金があるとしても主に明け渡さない限り、まともに神様に従うことも、人に仕えることも、祝福を味わうこともできません。「主よ、私の思い、計画、時間、地位、力、お金、全てを主にお委ねいたします。どうぞ主の為に、人の為に、私の為に用いて下さい。そして正しく用いさせて下さい。」と祈らなければなりません。
 弟子たちの足を洗った後、イエス様は『主であり、師であるこのわたしがあなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです』(13:14)と、命じられました。即ち、互いに汚い所でも、受け入れ合い励まし合い、愛し合い、仕え合うことを模範として示して下さいました。もし、あなたが「私にはイエス様のようにはできません」と言うならば、その意味は、「私は主であり、師であるイエス様にまさる者である」ことを表していることに気づいてください。単に人に仕えてない罪だけでなく、『自分は主人にまさる者である』と言うどんでもない罪を犯していることになってしまいます。主であり、師である方がその模範を示して下さったのは、私たちができないことを示したのではなく、出来ることとやるべきことを示して下さったのです。王様が掃除するのに、しもべが自分はできないとかしないとかと、どうして言えるでしょう。しかし、心配する必要はありません。主は、実行できる力さえも与えて下さいます(ヨハネ14:16-17)。この時代において、サンダルを履いて歩いた彼らの足はとても汚く臭かったのです。一番汚いところでさえもためらうことなく、いやいやでなく喜んで仕えていく心や姿、それが生まれ変わったクリスチャンの本当の姿であり、祝福の秘訣です:「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」(ヨハネ13:17)。あなたは、「私にはイエス様のように、あの人には仕えられません。できません。」と言って、神よりまさっているという罪を犯していませんか。また、力を与えて下さる主を信頼しない不信仰の罪を犯してませんか。主を信頼し、主に委ね、主に助けを求め、御言葉に生きる者は幸せです。その人の祝福はこの世においても、神の御国においても測り知れないものだからです。アーメン。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


4月6日(月)創世記6:1-22『ノアと箱舟』

2009/04/11 16:28
 地上の全ての人が完全に堕落していた中で唯一ノアだけは、この世の流れに調子を合わさず、神様を信じ神様と共に歩んでいました。しかも、いい加減な信仰ではなく、まったき信仰をもって歩んでいたと聖書は記しています(6:8)。周りが全員堕落している中で一人だけで信仰をもつことは、保ち続けるだけでも容易ではないのに、まったき人として歩んでいたことは本当に驚かざるを得ません。神様はそんなノアに大きな箱舟を造ることを託し、ノアは神様が命じられたとおりに全てそのように行ないました(6:22)。これはノアが全人類の新たな先祖として祝福された理由でもあります。神様は創造の時から全てを善きものとして祝福される存在として造られました。そして、堕落以降も神様は祝福しようと願っておられました。そして、今も願っておられます。しかし、私たちが完全に祝福を味わうことができないのは中途半端に主に従ったり、そのような信仰姿勢をもっているからです。私たちを造られた神様へのまったき従順は救いと祝福を産み出します。しかし、中途半端な信仰の姿勢は、祝福を漏らしてしまいます。神様に対する偏った理解、中途半端な信仰姿勢、いい加減な信仰の歩みは全て神様からのまったき祝福を妨げてしまいます。しかし、それにも関わらず主は常に私たちが成長していくことを待ち望んで忍耐しておられます。
 さて、箱舟の大きさは約長さ140メートル、横幅23メートル、高さ13.5メートルの3階建の構造でした。現存する全ての動物が2匹ずつ入っても十分なスペースであることは既に科学的・数学的に証明されています。この箱舟はノアが勝手に考案して作り上げたのではなく、神様の設計でした。神様は、人類の罪に対して水による裁きを行なう前に救いの箱舟を用意されました。神様が人類を裁いて、そこで人類の何人かがその裁きから何とか逃れて生き残ったのではありません。ノアの箱舟は初めから、先ず人類に対する神様の救いと、次に裁きを表しています。人は自分を救うことも出来なければ、裁きから免れることも、自ら裁くことも、権利もありません。救いは神様からもたらされます。裁きの主権者は人ではなく、神様です。ノアの箱舟はもちろんイエス・キリストを象徴します。神様は、『なぜ初めからイエス・キリストを送って下さらなかったのか』と質問する人がいますが、それを答えるには紙面が足りなく、そのような議論は私たちの人生にとってそれほど大きな意味をもっていません。そのような問いに一つ簡単に答えるならば、もし、イエス・キリストがノアの時代に来たとするならば今の私もあなたもこの世には存在しなかったでしょう!話を元に戻しますが、ノアの箱舟のように、キリストの十字架は全人類の罪に対する神様の裁きと同時に救いを表しています。神様の裁きと愛が同時に表されている所が十字架なのです。キリストが私の、あなたの罪を身代わりに背負って下さいました。神様は、既に創造の前から人類の堕落に対して自らのいのちを人に与えるご計画をもって決心しておられました。神様がそれを知りながらなぜそこまでされたのか、それは神様の測り知れない恵みであり、愛です。やがて私たちはその奥義を完全に知る時がきます。罪に対するこの神様の裁きと救いが有効になるために私が、あなたが出来ることはそれを信じ受け入れることです。キリストの十字架の死の犠牲は私の、あなたの罪の身代わりであり、イエス様の復活は新しいいのちのプレゼント、救いを表しています。キリストによって罪赦され、贖われた人は、失われた神の霊(6:3)が完全にキリストにあって回復されます。イエス様にあって永遠に回復されます。このノアの信仰にならってキリストの愛と恵みを学びつつ、知りつつ、御言葉にまったき信仰をもって従う、歩む者は幸いです。その人への祝福は完全なものになるからです。アーメン。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


4月4日(土)創世記6:1-13『人類の大堕落』;ガラテヤ5章を読む

2009/04/11 16:26
 人が地上で増えていく中で人々は神様からますます離れていき、神様を忘れ、どんどん堕落していきました。古代には神様から離れてしまったカインの子孫と神に従うセツの子孫に分かれて、『人の子ら』と『神の子ら』に分かれていたようですが、「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻」としていました(6:2)。それは、神の子らの堕落をももたらしてしまいました:「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(6:5);「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである」(6:11-12)。人が増加するにつれて、道徳的堕落、とりわけ性的堕落と横暴・暴力が満ちてきて心に考えることや計ること、行なうことがいつも悪いことだけに傾いていました。
現代においても日本を含む多くの国・社会の一番大きな問題は道徳的乱れです。経済が発展していく中で、性を商品化し、あらゆる所で売り物にしているのが現実です。TVやインターネット、携帯電話、スポーツ新聞、雑誌、漫画、ゲームなどあらゆる物に性を売り物にしています。神の人であるクリスチャンはこのような環境で多大な影響を受けながら共に生きています。色んな場面やケースにおいてクリスチャンも道徳的判断に麻痺して、この世の流れや考えに調子を会わせ、妥協したり同調したりする場合が多くあります。一度罪と妥協したり、同調したりしてしまうと道徳的・霊的感覚は徐々に麻痺していきます。そして、しまいには無感覚になり、善悪の判断自体が麻痺します。「それが何が悪いねん!そんな堅苦しい、古臭い考えは時代遅れだ!」と、声を張り上げて堂々と主張し始めます。自分を正当化していきます。罪に対して何も感じ得なくなります。現代の性的乱れは完全にそうなっています。男が女になったり、女が男になったりします。性転換手術です。ホモやレジビアンの牧師や伝道師までが出現しています。一言で慨嘆せざるを得ません!最近、又エイズの患者や死亡が増加している新聞報告を読みました。その理由は、性的乱れ、特に同性愛間で増えていることです。クリスチャンも、しっかりと御言葉を知り、目をさまして祈らないと、あっという間にこの世の考え方や行動パターンに流れてしまいます。
もちろん、だからと言ってこの世から隔離する必要はありません。ある人はそのような社会にうんざりして隠遁生活したり、誰にも干渉されず、好き勝手に独りで暮らしたいと願ったりします。静かに自分自身を振り返ってみる生活を持つことはいいですが、人や社会が嫌で逃げていく行為は、現実逃避であり、何の解決にもなりません。神様はそのようなことを望んでいません。むしろ、何が良いことで正しいのかをしっかりとわきまえ知る為に、善悪の基準となる神様の御言葉を黙想し、それに照らし合わせながら、自分を戒め、人を助け、子どもを教育していかなければなりません。神様は神を信じるクリスチャンをこのような世の光と塩として見ています。光は、その輝きを放っていきます。闇を照らしていきます。塩は味を出します。腐りやすい物はもっとたくさんの塩をまきます。クリスチャンは、この世に向かって悪いことは悪いと声を出して、自分の罪ごとく神様の哀れみと慈しみを祈りつつ悔い改めなければなりません。あなたは消えていく光ですか。味を失っている塩のクリスチャンですか?それとも、強い光であり、味の濃い塩のクリスチャンですか?それを左右するのは、あなたがどれほど主を知り、主を信頼して従い歩むかにかかっています。それを信仰と言います。今日もキリストの十字架の赦しと回復と祝福を知り、歩む者は幸せです。アーメン
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


続きを見る

トップへ

月別リンク