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2009/04/11 16:32
金曜日にイエス様は十字架につけられましたが、聖書の預言通りに週の初めの日、即ち、今の日曜日の朝、キリストはよみがえられました。キリストの復活は、キリストの死と共にクリスチャン信仰の核心です。キリストの復活がなければ、彼の死の意味は中途半端となり、我々にも復活や永遠のいのちもありません。即ち、キリストの死が人類の罪の贖いだったとしても、復活がなければ神を信じる我々にも永遠のいのちはなく、依然として死ぬべき存在となってしまいます。また、復活がなかったら、キリストが罪を赦し、永遠のいのちを与えられる神である証拠もありません。しかし、キリストはよみがえり、その墓は空っぽとなり、多くの人々に公に現れました!キリストの墓は、厳重に監視され、敵も見方も盗まれないように守っていました。'); function google_ad_request_done(google_ads) { var i; if( google_ads[0 * webryblog_max_num_ads] ){ document.write(" ");
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2009/04/11 16:31
今日は、当時、ちょうどイエス・キリストが『どくろ』と呼ばれるゴルゴタという丘の上で十字架にかけられた日です。イエス様は鞭打たれ、嘲られ、罵られ、唾かけられ、十字架上に付けられました。罪の無い聖なるお方が全人類の罪の贖いと赦しの為に身代わりに死んで下さいました。この日はイスラエルの過ぎ越し祭りの最後日でもありました(イスラエルでは夕方から次の日の夕方まで一日と数えます)。この日は、エジプトでイスラエル人が奴隷から解放されたことを覚え、1週間祭りが行なわれ、最後の日に傷のない子羊ややぎがほふられ、いけにえを奉げる儀式が行なわれていました。イエス様は預言通り、この過ぎ越しの祭りの最後の日に、この過ぎ越しのほふられる子羊として、十字架上で死なれました。'); function google_ad_request_done(google_ads) { var i; if( google_ads[1 * webryblog_max_num_ads] ){ document.write(" ");
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2009/04/11 16:30
過ぎ越しの祭りの最終日、即ち、子羊がほふられる、種なしパンの日に、イエス様は弟子たちを集め、最後の晩餐を行ないました(ルカ22章)。イエス様はその夜、パンと杯を取り、ご自身の身に起こること、これからなさる十字架の意味を語りました。即ち、創造主である方が人の罪の為に身代わりになって死んで下さること、その為に神であられる方が徹底的に低くなられ、今まで仕えて来られたことを身をもって示して下さいました。ところが、弟子たちの態度はイエス様の思いとは食い違い、空回りしていました。なんと、彼らの間には、誰が一番偉いだろうかという議論がまた起きていたのです(22:24)。人間には大きく4つの欲があります。食べ物に対する食欲、物質に対する物欲、性に対する性欲、名誉に対する名誉欲です。これが罪性に囚われてしまうと、貪欲、情欲、傲慢、そして争いを生み出します。弟子たちの期待は、自分たちがイエス様に全てを捨てて従ったから、神の御国の到来において、成就において少なくとも順番に偉い座に着くと思っていました。ごく自然な人間的考え方です。'); function google_ad_request_done(google_ads) { var i; if( google_ads[2 * webryblog_max_num_ads] ){ document.write(" ");
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2009/04/11 16:29
イスラエルの過ぎ越しの祭りは、イスラエルがエジプトの奴隷から解放され自由の民となったことを記念して出エジプト時代から今日に至るまで守り行なっているイスラエルの3大祭りの一つです。イスラエルは、エジプトから脱出する前夜、傷のない子羊ややぎをほふり、その血を取り、家の門柱とかもいにそれを塗りました。また、それは人間が好きな動物を選び、決めたのではなく、神様自ら定め、命じました。人による方法ではなく、神様が定める方法でした。その夜、神様はエジプトの全土を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの全ての初子を打ち、エジプトにある全ての偶像をさばきました(12:12、29)。しかし、イスラエル人がいる家々の血は、彼らの救いと贖いのしるしとなり、主はその血を見て、彼らの所を通り過ぎました。神様がエジプトの地をさばく時、この血がつけられたイスラエルの家には神様からの滅びのわざわいは起こりませんでした(12:13)。そして、神様はこの日について彼らに言われました:「この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。」(12:14) |
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2009/04/11 16:28
イスラエルの3大祭りの一つである過ぎ越しの祭りの前にイエス様は、弟子たちをもう一度集めて、ご自身がなぜこの世に来られ、これからどんなことが起き、何をなさるかを明らかに示しました。先ず、イエス様は弟子たちにお互いに愛し合い、仕え合う者になることを模範として示して下さいました。弟子たちは、イエス様がクーデタを起こし、イスラエルをローマ帝国の植民地から独立させ、彼らに栄光の座を与えてくれると期待していました。しかし、弟子たちを集めた時、イエス様は最後の戦いの為に彼らの武器をチェックしこれからの革命の成功の後に与えるポストについて語ったのではなく、彼らの信仰をもう一度点検して下さいました。イエス様は余すところなく弟子たち(裏切りイスカリオテ・ユダを含む)にその愛を示しながら、神様が願う人の姿が何であるか、そして人の本当の祝福の秘訣を教えて下さいました。腰にはタオルをまいて創造の神であられる方が被造物である人の前で跪き、腰を屈め、弟子たちの足を洗い始められました。ペテロの順番になった時ペテロは自分の足を洗わないように言いました。彼は、申し訳ないと思って遠慮したでしょう。自分こそ主であるイエス様の足を洗うべきだと思っていたかも知れません。 |
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2009/04/11 16:28
地上の全ての人が完全に堕落していた中で唯一ノアだけは、この世の流れに調子を合わさず、神様を信じ神様と共に歩んでいました。しかも、いい加減な信仰ではなく、まったき信仰をもって歩んでいたと聖書は記しています(6:8)。周りが全員堕落している中で一人だけで信仰をもつことは、保ち続けるだけでも容易ではないのに、まったき人として歩んでいたことは本当に驚かざるを得ません。神様はそんなノアに大きな箱舟を造ることを託し、ノアは神様が命じられたとおりに全てそのように行ないました(6:22)。これはノアが全人類の新たな先祖として祝福された理由でもあります。神様は創造の時から全てを善きものとして祝福される存在として造られました。そして、堕落以降も神様は祝福しようと願っておられました。そして、今も願っておられます。しかし、私たちが完全に祝福を味わうことができないのは中途半端に主に従ったり、そのような信仰姿勢をもっているからです。私たちを造られた神様へのまったき従順は救いと祝福を産み出します。しかし、中途半端な信仰の姿勢は、祝福を漏らしてしまいます。神様に対する偏った理解、中途半端な信仰姿勢、いい加減な信仰の歩みは全て神様からのまったき祝福を妨げてしまいます。しかし、それにも関わらず主は常に私たちが成長していくことを待ち望んで忍耐しておられます。 |
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2009/04/11 16:26
人が地上で増えていく中で人々は神様からますます離れていき、神様を忘れ、どんどん堕落していきました。古代には神様から離れてしまったカインの子孫と神に従うセツの子孫に分かれて、『人の子ら』と『神の子ら』に分かれていたようですが、「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻」としていました(6:2)。それは、神の子らの堕落をももたらしてしまいました:「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(6:5);「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである」(6:11-12)。人が増加するにつれて、道徳的堕落、とりわけ性的堕落と横暴・暴力が満ちてきて心に考えることや計ること、行なうことがいつも悪いことだけに傾いていました。 |
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