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〜香芝チャペル〜 あなたへGood News!

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〜香芝チャペル〜 あなたへGood News!
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グレース宣教会 香芝チャペルが毎月配布している新聞です。
キリストの愛をあなたにも!教会へおいでください
●奈良県香芝市西真美1-22-10 0745-78-3196
牧師 :安田 正 /金 大弘(キム・デホン)
■聖 日 礼 拝 日曜11時〜  ■こども日曜学校 日曜9時00分〜
■婦 人 会 水曜10時半〜 ■木 曜 礼 拝    木曜夜7時半〜
 
▽英会話大人クラス火曜昼13:00−14:30、14:45-16:15(上級)
▽英会話子供クラス 火曜16:30、17:30
▽韓国語会話    火曜夜15:30−17:00、17:00―18:30

■聖書の学び(Bible Study)・・・聖書のことを知りたい方、色んな 疑問がある方、どなたでもいつでも大歓迎します。
■各種相談(カウンセリング)・・・子育て、人間関係、家族関係や 家庭内暴力、精神的問題(うつなど)、宗教相談、結婚相談、中毒問題、いじめ問題などの悩みがある方はどなたでもお越しください。
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毎日デボ4月22日(木)イザヤ63:15-64:12「回復の為のお祈り」

2010/04/22 07:53
  今に至るまで大預言者はイスラエルを取り囲む周辺国や神の民の罪や堕落に対する主のさばきと愛、そしてその回復を壮絶に語った後、今もう一度回復の為の祈りを切にささげています。この祈りは、とても大切な内容を含んでいます。私たちもイザヤの祈りを学ぶことはとても有益です。
先ず、イザヤは主の前に昔の主の約束を想起しながら、また、現在のイスラエルの状況を述べながら主のたぎる思いとあわれみをもう一度訴えています。(63:15-19;64:10-12)神の民にとってイスラエルは昔から神の民であり、子供であり、また主は彼らの父です。たとい罪を犯したとしても父であること、贖い主であることは変わらないと、イザヤは、まるで子供がお父さんに訴えているように訴えかけています。
本当の父親は自分の子供を見捨てることをしません。わがままになって忠告を聞かずかたくなになる子供をほったらかすことは絶対されません。たとい鞭を加えるとしても必ず彼らを罪から立ち返らせます。イザヤは主のあわれみと慈しみ、恵み、その愛を知っている人でした。今の試練はイスラエルを滅ぼす為の神の怒り、さばきではなく、イスラエルの罪を徹底的に滅ぼし、癒し、回復の為の主の鞭であることを知りました。
イザヤは、自ら父なる神を離れ堕落した結果がどのような凄まじい結果なのかを訴えました。彼らが神を捨ててしまった時、イスラエルを恐れる敵は誰もいませんでした。サタンは彼らを霊的に、知的に、精神的に、物質的な堕落をもって踏みつけました。アッシリアとバビロンは民と約束の地を踏みにじりました。自分たちの力も、同盟国も、どんな偶像も、誰も彼らを敵から救うことができませんでした。
イザヤと民は悟りました。聖なる民という意味を。創造主で聖なる神を離れることがどれほど自分たちを汚れさせ、不潔となり、水を失った木のように枯れ、風に吹き飛ばされるほどの弱い存在であるかを。にもかかわらず、神の恵みと祝福を受ている存在であるかを。人間は土に過ぎない存在であり、神は陶器師なる創造主であることとその意味を知りました。(64:8)神様が自ら現して下さらなかったら、自分たちからは神様を正しく求めることも探すことも、知ることもできないことが分かりました。(64:7)
  神ご自身が希望であり、光であり、喜びであり、聖であり、正義であり、義であり、癒しであり、善であり、楽しさであり、信頼であり、愛であり、あわれみであり、力であり、元気であり、いのちです。神は願わず、これらを願うことはあり得ないこと、矛盾であることを先日も見ることができました。イエス様は、今光があるうちに光の中を歩みなさいと語られました。
  イザヤは主が共におられる、主の臨在がどれほど素晴らしい恵みであり、力であり、喜びであり、癒しであり、回復であるかを知りました。主の鞭が怖くて隠れるより、主の前に出ていき、主の御顔を見る方がくことがどれほど大きな喜びで、恵みであるかを悟り、訴えました。主の顔を隠さないようにと。詩篇42篇でも著者は主の御顔や臨在を強く願って祈っています。
   私たちの本当の宝となるのは聖なる都でも(64;11)、お金でも、名誉でも、健康でも、知恵でも、家族でもありません。ただ、それを与え、支えて下さり、存在させる根源となる造り主のみです。この方は今日も私たちを愛して尊い御名を与えて下さっています。今、イザヤのように主の前に日々出て行き、あなたの今の現状を話してください。みことばを読み、黙想しながら主がどんなお方か、自分がどんな存在なのかを学んでください。そして、主の約束が何か、自分がどう変わるべきかを知り、主に助けを求めつつ、主の助けと祝福を信頼していきましょう。主の恵みと愛はとこしまで。アーメン。
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毎日デボ4月20日(火)イザヤ63:7-14「昔からずっと」

2010/04/20 13:37
  私たちは愛する人が自分のそばを離れ去ってしまった時、やっとその人の大切さや素晴らしさを感じ、悟る時があります。普段、水が満ち溢れていたら水のありがたさ、素晴らしさに気づいてません。空気もそうです。食べ物もそうです。光もそうです。何一つ欠けてはならないものです。体についている目や鼻、口、指,爪、足、髪の毛などもそうです。
ところが、物質的な面だけではなく、霊的な面でもそうです。私たちは創造主によって造られ、創造主にあって本当の価値と幸せを感じます。創造主にあって善を行うことができ、創造主によって力をいただきます。また、この創造主なる神様にあって愛することができ、希望と喜びがあります。安らぎと平和があります。なぜなら、神様が私たちをそのように造られたからというより、創造主なる神様ご自身が初めからそのようなご性質をもっておられる方だからです。
すなわち、神様は愛です。善そのものです。聖です。光です。いのちです。豊かです。幸せです。祝福です。知識・知恵です。希望です。喜びです。平和です。安らぎです。感謝です。柔和です。謙遜です。神様のこれらのご性質は永遠であり、切り離すことは不可能です。だから、私たちが創造主を離れては何もすることができません。(ヨハネ15:4-5)創造主を離れることや捨てることはこれらのすべてを自ら失うこと、拒むことを意味します。神様は信じず拒むけど、祝福や、幸せ、愛、感謝だけがほしいということは初めから不可能であり矛盾です。
神は太古の初めから、昔からずっと私たちを離れず、物質的な恵みだけでなく、霊的、精神的、知的、肉体的恵みを降り注いできておられました。人々は神様を捨てても、神様が離れても光はあると思っています。しかし、神様ご自身がひかりとなるお方であり、光はこの方から出て、この方の為に存在します。人間の為に存在しているのではありません。地球と宇宙は神様から出て、神様の為に存在するものであって、人間の為に存在しているのでありません。人間が神様を拒むと自然、動物、細菌、植物、地球と宇宙は人間を拒みます。
  大預言者イザヤはそれを悟っていました。人のあらゆる罪や堕落、暴虐、反逆にもかかわらず、主が施した恵み、奇しいみわざ、そのあわれみと豊かな恩寵を。(63:7)私たちが苦しむ時にはいつも共に苦しみ、ご自身の使いを遣わし私たちが知らん間に、気づかないうちに何度でも救い出し、その愛とあわれみによって私たちを贖い、昔からずっと背負い、抱いてこられました。(63:8-10)
実は、砂浜の所に残っているあの足跡は私のものではなく、主のものでした。主がはじめからずっと私とあなたを背負って、抱いてその道を歩いて来られたのです。にもあかわらず、私たちはこれらのすべてを無視し、「あなたはどこにおられ、イスラエルを、私たちを救わないんですか」、「御霊はどこにおられるんですか。」、「モーゼの時代のような輝かしいみわざをなさった神は今いったいどこにおられるんですか」と、煩悶・反問しています。(63:11-13)
  しかし、イザヤはわかりました。そして見ることができました。主の恵みとあわれみと忍耐は昔からずっとあったことを。その恵みはとこしえまで。私たちはやがて神の御国で神様の恵みと愛に接するのでありません。既に神の愛が、キリストの愛が、十字架の愛が私たちを取り囲んでいるのです。今のようにいつでもどこでも神に近づくことができるのは幸せです。主に近づくのは幸せに、愛に、真の喜びに、感謝に、平和と安らぎに近づくことになります。だから、キリストも語ったのです。(マタイ11:28-30)そう。今日も主と共に確信をもって御言葉に生きましょう。アーメン。
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毎日デボイザヤ63:1-6「悪人に対する主の審判と救い」

2010/04/19 23:57
  イザヤは56章から59章に渡ってイスラエルの罪と彼らの堕落像を指摘し、告白しました。また、悔い改めを促しました。ところが、59章の16節から62章に渡っては人にはその罪と咎を自らきよめる能力も力も意思もないことを指摘しながら、創造主自ら正義の審判と救いのみわざを行うことを宣言しています。義と光を失い、自らさばきと死を招く人の為に、創造主の義と光を人に与え、回復することを語っています。そして、その義と善を回復した人々によってさらに神の義の光と救いの冠が全人類に及ぼすことを述べました。
  そして、63章1節〜6節まではいよいよこの神の義と善を実行する方が誰かについて語っています。この偉大な方はエドムからその義のさばきと救いのみわざを行いはじめています。エドムはイスラエルと血によってつながって民族でいた。しかし、彼らはイスラエルを悩ませ、堕落させました。また、自ら滅びをもたらすほど堕落していきました。このエドムに関しては4回に渡って審判を警告し、予告しています。(cf.21:11-17;34:1-17;63:1-6)
エドムにも神の義を語る者も行う者もいませんでした。(63:3)また、彼らの罪と堕落、暴虐から誰も助ける者がいませんでした。(63:5)昔も現代も多くの者が人類自ら引き起こす悲惨で残虐な行為とその結果に神様を恨む人たちがいます。神様が生きていれば、なぜ、神様はそれを見て見ぬふりをしているのかと。なぜ、神様は悪人をほっといて弱く、善良な人々が虐げられ、殺されるのを見逃すのかと叫びます。また、なぜ自然災害を与えて人々を犠牲のいけにえとするのかと、恨みます。
しかし、そのように神を理解する人々はギリシャ神話を読みすぎか、聖書の神様を知らなさ過ぎです。そのような人たちにとって中心は最後まで人間です。義人は一人もいないことを理解してないです。罪の恐ろしい結果をわかってないです。神様がこれほど人間の常識で、または常識を超えて示し表してくださる愛とその犠牲を完全に無視し、受け入れようとしてません。
イザヤは、イスラエルを囲む周辺国、アッシリア、ツロ、シドン、エドム、モアブ、バビロン、パレスタイン、カナンの部族、そして、例外なく北イスラエルと南ユダに対して神の愛がどれほどのものなのかを証明しながら、神の義のさばきと救いが同時に行われることを預言しました。彼らは徹底的に堕落しました。堕落し過ぎて、その血が汚れたものとなるほどでした。糞は踏んだら踏んだ人の足と服が汚れてきます。同じく、神のさばきによってさばかれたひとたちの血が神の聖なる服を汚したと語られています。(63:3)神様のさばきは、悪人に対する復讐と同時に救いです。(63:4)
復讐は人間にあるのではなく、聖なる正義の神にあります。(ヘブル10:30-31)人の復讐は更なる憎悪を生み出します。しかし、神様のさばきは聖さといのちと救いを生み出します。イザヤはエドムの行為と神様の行為がそのように対照的であると証しています。エドムのような偶像崇拝者は、怖い神を満足させるべき祈りやいけにえが必要だと叫び、拝みます。罪を悔い改める気持ちこれぽっちもなく、自己善に満足します。エドムなどこれらの国々はこの歴史の中で完全にさばかれ、その国を2度と回復できませんでした。しかし、イスラエルは違いました。神の民には審判だけでなく、癒しと回復があり、祝福がありました。これらの預言は全人類に対する証となりました。そして、今を生きる私たちにとっても昔のおとぎ話ではなく、現実の世界、現実のことばであることをもの語っています。
キリストにあって、生きておられる神と共に歩み、主のみことばに生きる人は幸いな人です。その人は決してさばきと第二の死に会うことがないからです。今日も恐れずに胸を張って歩んでいきましょう。アーメン
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ルカ15:1-10『父なる神の喜び』

2009/10/30 10:20
イエス様のみもとに、当時パリサイ人や律法学者らの指導者から差別・軽蔑されていた取税人や罪人たちがイエス様の話を聞く為に来た時に、パリサイ人や律法学者たちは彼らを受け入れるイエス様の態度について非難をしました。それに対してイエス様は3つの喩えを通して神様の御心が何かを教えて下さっています。
  最初の喩えは、失われた羊を探す喩えです。二つ目の喩えは、失った銀貨(ドラクマ:1ドラクマは一日の賃金に当たる)の話。三つ目の喩えは、有名な放蕩息子の話です。三つともメッセージは、失われた者を探し、喜ぶ神様の姿、御心を描いています。ここでは、前の二つの喩えを先ず、みるとします。
  初めの羊の喩えは、100匹の羊の中、1匹を失った時の話です。失われた1匹を探す為に、99匹を野原に残して必死に探し出す姿がうかがえます。そして、見つけた時に、『大変』喜んで、あまりにも嬉しいので、『かついで』帰って来て、しかも、『友だちや近所の人々まで呼び集めて』、一緒に喜んだのです。「昨日、羊ちゃんを失ったけど、今日捜し戻したのです。嬉しい。皆、一緒に喜んでくれ。ばんざーい!」と。
  また、銀貨1枚を10枚中から失った女性は、『念入りに』捜して、やっとそれを見つけ出したら、なんとそれが嬉しくて、彼女も『近所の女達や友人を呼び集めて』、『一緒に喜んでくれ!』と言うのです。たかが一日の賃金ほどの額の為に!
大げさに見えますか?違います。それと同じような喜びが、天国でも、『ひとりの罪人が地上で悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。』(ルカ15:7)また、銀貨の探しと同じような喜びが、即ち、『ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。』(ルカ15:10)
  これが意味するところを私たちは立ち止って深く考える必要があります。先ず罪人を呼び、赦して、受け入れて下さる神の愛です。アダムとエバが罪を犯した時に、先ず神様が彼らを捜しました。彼らは罪を犯して、神様を探すところか、神様から逃げて隠れていました。イスラエルの民が罪を犯し続ける時も、いつも神様は忍耐して彼らを呼び、赦し、受け入れて下さいました。
  私たちが罪人であった時、私たちを愛し、探し出して下さった、呼んでくださったのは神様でした。『しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(ローマ5:8)
あなたが苦しむ時、悩む時、あなたを先に呼んでくださったのは、いつも父なる神様です。あなたが先に神を呼び求めたのではありません。『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』(1ヨハネ4:10)神様は、『念入りに』あなたを探し出したのです。
さて、失った者を探し出した神様の喜びは皆が一緒に喜ぶものでした。ただ、神様だけが喜ぶことではなく、先に救われた人も、救われる必要もない神の御使いたちも喜ぶ大変な喜びです。喜ぶ者と一緒に喜ぶのです(ローマ12:15)。私たちは、私たちが救われた時、天においてどれほどの喜びが湧き上がったのか、あまり分からないかも知れません。
しかし、それは宇宙を揺るがすほどの全ての者が喜ぶ大喜びだったのです。それは事実です。イエス様はそれを教えて下さっています。私たちも、失われた者を祈りと伝道によって『一生懸命』に探し出し、救われたら本当に共に喜ぶのです。あなたにはどれほどの切なる救霊の思いがあるんでしょうか。喜びを知らない人は、救霊の思いもあまりないのです。
  早天、祈祷会、デボーションを通して人々の救いと成長の為に共に切に祈り、宣教のわざに励む!これはこの地上だけの働きであり、今だけです。あなたも私もこの神のわざに共に今日も励もうではありませんか。喜んで。
アーメン
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ルカ14:25-35『イエス様の弟子となる者は』

2009/10/30 10:19
昨日のルカ14:15-24では、宴会の喩えを通して神の国に着いて食事を味わう人は誰かを教えられました。神様の恵みの盛大な宴会は既に用意されています。しかし、ある人々は招かれているのにも関わらず、自分のことに忙しく、残念ながらその素晴らしい恵みの宴会のチャンスを逃してしまいました。これは神様の働き(神の国と義)をする人の恵みは、宴会のような素晴らしいことであること、それを失わないことを教えています。
  さて、大勢の人々がイエス様のこの話しを聞きながらと一緒に歩いていましたが、イエス様は彼らに向かって、『わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません』(14:26-27)と語られました。
  多くの人々がイエス様と歩むつもりですが、そこには絶対的献身という犠牲が伴います。イエス様はそれを自分の十字架とも語られます。自分の十字架を捨てなさいではなく、『自分の十字架を背負って』イエス様に着いて来なさいと命じておられます。私たちには、家族や世の仕事、友人、知人、町、村に対する様々な重荷、負担、責任があります。それらを捨てるのでなく、それらを背負って『先ず、主に従う』のです。
主はあなたの十字架の重さをご存知です。また、主はあなたがこれらの責任、重荷を背負っているのもご存知です。しかし、これらのことで主に来るのが妨げられる理由は実はありません。具体的例えを言いましょう。ある人に未信者のご両親がいます。両親は体が不便な為あなたなしには、自分のことをすることができません。これはあなたの重荷、十字架です。しかし、あなたはイエス様に従うからといって両親を捨てる必要も、置き去りにする必要もありません。また逆に礼拝を奉げれないことも神の働きの奉仕や主にある交わりができないこともないのです。
問題は、あなたが主をどれほど知り、信頼するかです。人生の色んな負担があっても私を助け、励まし、癒し、赦し、聖め、回復し、祝福して下さるお方を信頼すれば、あなたの重荷を捨てて礼拝に来るのではなく、主が守り祝福して下さることを信じて礼拝や交わりに望むことができるのです。実際、私は、自分の母親や妹が長い間ひどい病にあるのにも関わらず、何の不満もなく、いつもその十字架を背負い、結婚もせず、家族を背負いつつ、また、神の働きに遜色ない、いつも忠実・誠実に歩んでいる素晴らしい兄弟を知っています。その兄弟の姿は、本当に私の信仰の模範ともなりました。
人生の最優先がキリストでなければ、私たちは賢い建築家にはなれません(14:28-30)。本当に霊的戦争に勝利者になることができません(14:31-32)。塩として役立つこともできず、むしろ、この世からも捨てられてしまいます(14:33-35)。
先ず、キリストに従うことが祝福であり、回復があることを知って下さい。病人は先ず、医者に行かなかったら、従わなかったら結局死にます。私たちは、先ず、主の前に出ること。それが解決への、祝福への始まりであることを確信して下さい。主への絶対的献身はあなたとあなたの周りを祝福することになります。中途半端な姿は、あなた自身だけでなく、周りの祝福も逃してしまうことになります。アーメン。
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ルカ14:15-24「神の国の宴会に招かれた人の幸い」

2009/10/30 10:18
『主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』』(ルカ14:23-24)
  イエス様と共に食事をしている客の一人が、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょうと』言いました。それを聞いたイエス様は、盛大な宴会の喩えを話しながら、その恵みの宴会に参加できない残念な結果について警告を鳴らしました。この盛大な宴会は、将来的には神の御国の到来による神の御国での姿であり、今この時点で見ると、神の教会の働きを表しています。
  イエス様の喩えでは、宴会は『もうすっかり、用意ができて』いました。即ち、神の御国の到来は完全に用意ができています。宴会の時刻となったので、主人は、しもべを送り、『招いておいた人々』にはやく来るように伝えました。ところが、その招かれた人達は、次のように断りはじめました。
  ひとりは、畑を買ったので、どうしてもそれを見なければならないから。別のひとりは、五くびきの牛を買ったので、それをちょうどためしに行くところだから。別の人は、結婚したので行くことができないと。皆、様々な言い訳があります。もっともで、妥当で、仕方ないと思われることです。
この喩えに出る人達は皆仕事があり、健康があり、お金があり、家庭があります。それぞれの理由があります。とろこが、この招待された人達は残念ながらこのような理由で盛大な宴会に参加して主人の食事を味わうチャンスを逃してしまいました。むしろ、仕事も健康もない、お金も家族もないような人々、即ち、貧しい者や、からだの不自由な者、盲人、足のなえた人々が宴会に呼ばれ、主人の食事を味わうことができました。
私たちの信仰生活に適用すると、二つのとても大切な面があります。それは、私たちが招かれた者であると同時にしもべのように人々を招く者であることです。神様の盛大な宴会に招かれえている者として、神の招きに応答して私たちは教会生活、信仰生活を誠実に、神様の国と義の働きの素晴らしさを味わいながら送ることが大切です。
仕事もあり、健康もあり、お金もあり、家庭もあるが、それが理由でこの地上での神の救いの働き、礼拝の宴会を逃してしまわないようにしてください。そうすると神の恵みの宴会に入る、食事を味わうチャンスを失ってしまいます。
  さて、もう一つの面において私たちは先に召された者として、人々を神の宴会へと招くしもべであることです。主人はしもべに、『無理にでも人々を連れて来なさい』と、命じました。これが神様の御心です。神は、ご自身の御子のいのちをお与えたほど、人がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを得ることを願っておられ、愛しておられます。
しもべらは、主人の意思に従って無理にでも主人の宴会に人々を連れていく従順が必要です。宴会は、人々にとって最大に幸いなことです。人々は本当の幸せを知りません。猫が幸せや客を招くのではなく、先に救われた神の人(しもべ)が人を神の救いの宴会に導き、案内するのです。
  今日、あなたはこの二つの側面においてどのように応えていますか。主の宴会を喜び、共に主の御名によって集いましょう。その人は、幸いです。アーメン。
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ルカ14:1-14『神様から報われる人』

2009/10/30 10:17
今日の本文から私たちは神が報いて下さる人はどうあるべきかを学ぶことができます。神様から認められ、報われる人とは、@安息日を正しく生きる人です。ある安息日にイエス様はパリサイ派の指導者の家にまた招かれました。13章10-17でイエス様は安息日に18年間病を煩って腰が曲がった人をわざわざ癒しながら、律法学者たちやパリサイ人たちの偽善を叱責されましたが、イエス様はここでももう一度彼らの情けなさ、哀れみの無さ、律法的偽善を叱りました。
  パリサイ人や律法学者たちの問題は、人を配慮することも・神様のみこころを行うこともない偽善的、自己中心的な姿がありました。また、安息日を好き勝手に定めた律法で過ごしていく姿を非難しました。安息日は聖なる日であり、この日の主人は主です。私たちは主が望む正しいことを神様の前に、また人に行なっていくべきです。
今で言うと、自分が決めたことは日曜日は色々するけれども、神様が願うことを行なわない人は、また神様のことはいつも後回しになる人は聖なる安息日を正しく過ごさないことになります。主と共に歩む人は、本当の安息と癒しを主から得ることができます。神様への礼拝を律法的でなく、主の恵みと愛のゆえに命のごとく大事に守り、奉げる人は幸いです。礼拝に癒しと回復、祝福があることを確信し、主を愛して奉げる人は真に幸いな人です。
  2つ目に、神様に報われる人の姿はいつも自分を低くし謙る人です。パウロは、『兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい』(ローマ12:10)と、勧告しています。自分の学歴、財産、地位、名誉を他の人より優れていると自負する、自己満足することがないように気をつけてください。
私たちが主に受け入れられ、褒められるのは、主が受肉され、十字架で見せて下さったように、自分を謙らせ、人と主を愛し、尊敬していくことのみです。『だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。』(ルカ14:11)の御言葉を心に刻んで下さい。
  最後に、無視されやすい、関心から外れてしまいやすい人に関心を持ち、仕えることです。私たちの身の周りには貧しい者、かだらの不自由な人、様々な障害をもった人々、災難にあった人々がたくさんいます。神様の関心はいつも疎外されている人々にも目が滞りなく届いておられるのが分かります。
  私たちは常にそのような人に関心を注ぎ、助け、支え、仕えていかなければなりません。身近いの人に、また第3世界の人々にJIFH(国際飢餓対策機構)を通して、また共生園にボランティア活動など、様々な関心・働きを通して人を助けて行く人は神様の前で正しい、敬虔な、崇高な人です。その人への称賛は神様が与えて下さいます。
主は、私たちに全力で、全てを与えて関心をもって愛して下さいました。この主を愛していますか。では、主はあなたにこう告げられます。『人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。』(ミカ6:8)アーメン。
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